ゆらゆらと燻るのは蜃気楼なのか。欲望の熱気が中空を埋めつくす。夏、涼しい風が足もとを通り過ぎる。見失わないように、その風を追った。
山田さん(仮名)は目立たない人で、休日も家で過ごすことが多い。殊更に何かをやるということはなく、家と職場の往復で人生のほとんどを過ごした。家では主にテレビを観ている。また通勤の車内では気に入ったラジオ番組を録音したものを繰り返し聴いている。休日に出かけるのは奥さんの買い出しに同行するぐらい。スーパーマーケット内に入っているパン屋さんで、好きなパンを買ってくる。袋に入った菓子パンよりは多少値が張るが、焼きたての甘いパンは山田さんを喜ばせる。
家族の問題はいろいろとあった。長い年月の中では歯をくいしばることも。多額の借金を背負わされ、何十年も支払い続け、バカだのお人好しだのさんざん言われたが、山田さんは犠牲になって、ついには完済まで漕ぎ着けた。もう何年も前のことだ。
冬から夏に変われば、居間に涼しげなラグが敷かれ、足を伸ばして、いつもの座椅子に坐ると、忙しく立ち働く奥さんが、冷蔵庫から冷えた麦茶を出してきて、少し燻んだガラスコップに注ぎ入れる。開け放った掃き出し窓からは、涼しい風が、子どものように入ってくる。ひたいの汗を拭いながら、山田さんは微笑み、冷たい麦茶を飲んだ。テレビをつけて、録画しておいた NHK の朝ドラの続きを観る。この時間帯は出勤していて観られないのだった。1週間分を続けざまに観れば、休日の半分が終わっている。
高校は希望通りに専門科へと進んだ。山田さんの将来の夢は NHK に入社することだった。当時、世界で何台かしかない機材だか何だかが、そこにはあるらしかった。機械いじりが大好きで、小学校入学祝いで戴いた動くロボットを、その日のうちに分解してしまい、大人たちを大層怒らせた。成長しても機械好きは止まず、ゴミの日に周辺を徘徊しては、捨てられたテレビだのラジオだの、機械めいたものは片っ端から拾ってきた。とにかく分解して動きを確認しないことには納得できなかった。やがて大学進学の時がきて、学力に問題はなかったが、家族に反対されて、山田さんは、夢を諦めた。それから、勧められるままに就職した。その職場に、今も山田さんは務めている。
大きい話をしたことがない。他者を批判することを好まない。必ず善い面から人々を語る。穿った見方などしない。地に足のついた話をする。真面目に働き、家族を養い、ただの市井の人であり続ける。思い描いた日々ではなかったけれども、山田さんは受け入れている。苦難の日々ではなかったように、涼しい風が吹いている。
奥さんが西瓜を持ってきた。スーパーで特売だったらしい。みずみずしい赤い果肉と、弾む声と。山型に切り分けたそれに齧りつき、美味しそうに食べる。なんでもない会話が続く。いつかの運動会、古びた靴やワイシャツ、浅漬けの野菜、テレビドラマの感想、少々体が重くなった話など。奥さんが麦茶のコップに氷を足してくれた。カラン、という音が、透明な、向こう側から聴こえる。
山田さんの休日は、こうして終わる。嫌な顔をせず、明日もまた勤勉に働く。私は、山田さんを思い浮かべながら、逃げどころを失い、むせかえる熱気を、一段屈んで避けながら、この路地を、まっすぐに曲がった。